【久保市乙剣宮神社】

 
 久保市乙剣神社は下新町四十七番地(現在の尾張町2丁目16-73)に在り、祭神は明細帳に素盞鳴命とあり。
 然れど森田平次嘗て説をなして、「乙剣といふは神號なり。貞亨二年の由來書に、祭神は白山第四の御子神にて、古來久保市に鎮座すと、此神は白山記に金剣宮は白山第一の王子、又云、金剣宮は大行事乙剣ともありて、今石川郡鶴來町金剣宮の末社に鎮座ある乙剣の神是なりと云、加賀古跡考に、久保市権現は鶴來金剣宮乙剣明神を勧請すといへり。三州志に或云、其始め日神三剣を嚼て、三神を化生す。其一は鶴來の金剣宮、其二は松任の金剣宮、其三は久保市の乙剣宮なりといへり。
平次按に、此は日本紀神代の巷に載せたる宗像三神化生の故事に據て附會せしものなるべし、三神を鶴來の金剣宮は、諸神記に崇神天皇御宇天降三年三月社立、本社乙剣とあり、されば乙剣は金剣宮の御子神ならん。貞亨の由来書に、白山第四の御子神と載せたり。これ實に右傳説ならば、金剣宮の第四の御子神にて、乙子なるに依て、乙剣の神とは稱したるならんか。」といへり。
 本社の創建年代は今傳はらざれど、古より加賀加賀郡小坂庄久保市村の産土神なるにより、久保市乙剣宮と呼べるにて、社記に「當社は小坂庄内の守護神にて、茶臼山(卯辰山の別稱)の巓の地界を目的とし、淺野川を限り、南方尻垂坂の邊に亙り、尾山の麓を繞りて、西方彦三町に續き、北の方小橋邊に至るまでを、乙劔の氏子地とす。今東南の路界を剣境の辻(後に剣先辻といひ、今賢坂辻に作る)といふも、昔の遺名なり」といへり。
 本社は初め久保市村に鎮座せしかど、慶長六年枯木橋邊の總構堀を作るため、卯辰山に移轉せるにて、今の子來坂の北傍なりき。貞亨二年上記の由來書に「古より久保市に鎮座のところ、慶長六年卯辰山へ遷宮せり」との趣を載せ、三州志にも「慶長六年七月三日、瑞龍公(利長)花押以七ヶ寺一紙者、久保市金剛寺地於卯辰山賜」と見え、金剛寺は真言宗にして、本社の舊別當なることは、六用集(正徳五年版)にも久保市山法住坊金剛寺と載せたり。この法住坊は、不動尊を本地佛となしぬ。然るに金澤事蹟必録に「元和二年城下の町地建替のとき、乙剣の社を卯辰山に移せり」との趣を載せ、加賀古跡考にも「元和二年の頃、城下の町街を改建して、乙剣の社は卯辰山へ移さる。今の久保市山金剛寺はこれなり」と載せたれど、本社が卯辰山へ移轉せることを元和二年に係けたるは、誤轉なりといふ。
 慶長六年、本社を卯辰山に移轉して、後其跡地を加賀藩士西尾隼人の邸地に賜はりたるにて、金澤事蹟必録に「加賀守富樫泰高のとき、久保市の民屋建ち廣まり、其以前より此地に勧請したる乙剣権現を産土神に崇めたるが、社地は今の新町西尾氏居邸、即ち其舊跡なり」との趣を載せ、加賀古跡考にも「昔の久保市の社地は、新町西尾隼人の邸地にて、寶暦の初まで、裏門の坂の間に、古き鳥居の跡あり。又邸内にある老椎は、昔の社木なり」との趣を記せり。
 明治維新の際、神佛混淆を廃止せられたるに依り、別當法住坊は復飾して神職となり、久保市氏を稱し、寺號坊號ともに廃して、佛體佛具を取除き、明治五年十一月村社に列せられ、九年三月許されて舊社地に移り、社殿を造榮し、五月一日遷宮式を執行し、十二月郷社となる。
(稿本金沢市史より)


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