北は青森県、南は沖縄に至る全國諸地方の川・池・海などの水界に棲む妖怪。もと東國の一方言であったカッパという呼稱が漸次ひろがりつつあるが、なお各地に多くのよび方がおこなわれている。カハッパ・カハランベ・カハタラウ・カハコなど、カハに童兒の意を附したものが最も廣い分布を示している。河童の活動のはげしい九州では、これらの言葉を忌み、カハノトノ・カハノヒト・タビノヒトなどの忌言葉を使っている。
記紀その他の古典で水の霊を表わすミヅチが河童の方言となっている所もあり、注目される。エンコ(猿猴)・カウソ(川獺)・ガメ(龜)・ドチ(鼈)などは實在動物に假託した語である。
その形状も地方により差異が甚だしい。總體的には童兒の形であるが、頭頂に水を湛えた皿があり、髪はいわゆるオカッパをなしている。腕に關しては特に奇妙な傳承が多く、伸縮自在だとか、左右通り抜けだとか、あるいは極めて抜けやすいなどという。數多い妖怪のうち、河童は特に属性の豊かなものである。
人馬を水中に引入れようとし、相撲を挑み、畑作物を荒らすなどの悪戯をする。その反面、田植・田の草取りを手傳い、灌漑を引受けてくれるものもあった。水中に引入れるというのも、おおよそ日時・人・場所などが定まっていたらしい。壹岐島では「イミ三日祗園三日」といい、六月十五日の祗園祭を中心とする前後六日間は海に行かない。つまり、水神祭の物忌(ものいみ)の期間に海に行くような、神を恐れない不謹慎者が、河童の害に遭ったのであろう。
河童の失敗譚も多い。駒を引こうとして、逆に捕えられたり、腕を取られたりする。厠で女の尻を撫でたり、相撲に負けたりして、腕を取られる話もある。そして助命あるいは腕を返してもらう禮に川魚を贈り、接骨薬の秘宝を傳授したなどと傳えられている。
河童駒引は猿駒引の傳説と通ずるものであり、それは猿を馬の守護と頼んだ古い心意に発するものでもある。河童が年に二度、山と川との間を移動するという所が諸地にある。奈良縣吉野あたりでは山へ移ればヤマタロ、川に居る間はガンタロと呼稱を區別している。これは田の神と山の神とが春秋に去來するという考え方と全く一致する。薩隅の山間で、ヒョウヒョウと鳴きながら移動する河童の聲を聞くと、人々は敬虔な心持でじっとしているとさえいわれている。
河童は母子神信仰にもとずく小さ子神の思想と關係があることは明らかである。もとの形は水神少童とでも名づけられるものであったろう。實際に河童を水神として祀り、あるいは河童祭をしている所がある。津軽地方でシィッコサマとよばれる河童は、木像の彫刻となって、水のほとりに祀られている。
この河童の発生に關して、壹岐島や天草島・島原半島・静岡縣濱松などでは、大工が人形を作って建築の手傳いをさせ、造榮の功成り、水に放ったものが河童になったという言い傳えがある。アイヌの水霊ミンツチも傳説によると、もとは草人形であったという。これらによって、水神祭の依代(よりしろ)としてのヒトガタが、ある程度河童の形を整えるのに示唆ことも考えられよう。